2020年5月10日 礼拝メッセージ
コロナ騒動で家庭で礼拝を守っている方に、この機会ですので、ふだん鷹取教会で読み進めているマルコ書、ローマ書から離れて、説教を届けます。
先ず、次の聖書箇所を各自でお読み下さい。
聖書箇所 民数記第22章18節 (口語訳 p.220 新共同訳p.252)
「しかし、バラムはバラクの家来たちに答えた、「たといバラクがその家に満ちるほどの金銀をわたしに与えようとも、事の大小を問わず、わたしの神、主の言葉を越えては何もすることができません。」
それまでの荒野とは対照的に、そもそも「カナン」とは原語において「平地」の意です。そこはヨルダン川西岸の一帯です。そして、かつてアブラハムとともにメソポタミアからカナンに移住し、その後アブラハムと別れて死海に近いそのヨルダンの平地を選んで住んだアブラハムの甥ロト。彼ロトの子孫と言われているのがモアブ人です。あの「ルツ記」のルツもモアブ人とされています。カナン宗教はモアブ人の農耕生活と深く結び付いており、農耕神礼拝を行っていました。本日の御言葉においてバラクとは、モアブの平野に宿営するイスラエルが呪われることを願うモアブの王であり、一方バラムとは、バラクから頼られながらも、神の託宣を告げる者です。3部から成る民数記の第3部に当たります。
本日の聖書箇所に、「家に満ちるほどの金銀をわたしに与えようとも」何もすることができない、とされている点。ここから私たちは、ペテロが足のきかない男に「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」と命じると相手が踊りあがって歩き出したという使徒行伝3章6節の記事が連想されて来ないでしょうか。そこでは、「金銀はわたしには無い」という事実が、逆にキリストから来る最大の賜物を示す結果となって働いています。本日の民数記の御言葉も、「金銀はあっても何もすることができない」と告げています。これは金銀が役に立たないと言っているのではありません。そうではなく、神の前に何も無い、たとえ私が何を持っていようとも神の前には何も出来ないと知った時、人は逆に、最も恵み深い祝福に満ちたわざを為すことが出来る、と告げているのです。<人には出来ないが神には出来る>という真理、つまり人間の無力と神の全能とは、じつは分かち難く結び付いているという真理。これを語っているのです。それを証しする「事の大小を問わず、わたしの神、主の言葉を超えては何もすることができません」の言葉。 まこと誰もが砕かれて銘記すべき名言です。
自分が何かを持っている、自分自身がそれによって何かを為しうると考えているうちは、賜物は私たちのものとはなりません。そこでは神を恐れるより人を恐れます。人の目、人の評価を気にします。賜物を本当に賜物として神の前に用いさせていただくためには、まず自分の無力への自覚がなければなりません。神の全能も賜物も、自分の無力への自覚を通してでしか、私たちのものとはなりません。私たちが<無>にまでちぢむところに、神の全能は輝きます。そうされる前に「信じる者にはどんな事でもできる」と言ってみせても、それは何ら証しとなりません。 ただ主のみの栄光を仰ぎ、讃美歌356番を歌いましょう。