2020年4月19日  礼拝メッセージ

2020年04月19日

コロナ騒動で家庭で礼拝を守っている方に、この機会ですので、ふだん鷹取教会で読み進めているマルコ書、ローマ書から離れて、説教を届けます。

コロナ騒動で家庭で礼拝を守っている方に、この機会ですので、ふだん鷹取教会で読み進めているマルコ書、ローマ書から離れて、説教を届けます。

コロナ騒動で家庭で礼拝を守っている方に、この機会ですので、 普段鷹取教会で読み進めているマルコ書、ローマ書から離れて、 説教を届けます。


コロナ騒動で家庭で礼拝を守っている方に、この機会ですので、ふだん鷹取教会で読み進めているマルコ書、ローマ書から離れて、説教を届けます。


先ず、次の聖書箇所を各自でお読み下さい。

聖書箇所 ホセア書第11章1―9節 (口語訳 p.1255 新共同訳p.1416)

ホセア書は預言者ホセア自身の結婚生活の苦渋を通して神の愛を語る。ホセアは淫行に走るかも知れない危なかしいゴメルを妻とする。案の定、そのゴメルは自分のもとを離れ、他の男の所へいく。しかしホセアはゴメルを愛していたので、姦淫した妻を自分の所に呼び戻す。ゴメルは妊娠したが、自分の子ではないかもしれない。それでホセアは「憐れまれぬ者」「わが民でない者」を表す語をもって、子の名としようとした。しかし結果的にはそれを思いとどまり、「生ける神の子」「わが民」「憐れまれる者」を表す語をもって、子を名付ける。なぜか。それが主なる神の御心を思った時のホセアの結論だったからだ。この時、背信のイスラエルに対する神の愛の有様に、ホセアをして改めて深く思いを寄せさせ、彼の目を開かせたのは、妻ゴメルに対する彼自身の愛であったとも言えるのではないか。
とすれば、私たちに神の愛への思いを具体化させるのは、決して教義や観念といった抽象のわざではないことがわかる。多くは苦悩を伴った具体的な体験を通して、私たちはそれを知っていく。ホセアにしてみれば、不倫の妻への愛を何とか貫きたいと願う自分の心が基礎となって、それが潜在的な力となって、彼の目前に神の愛と御心が開けた。私たちはつい、その順序を逆に考えがちだが、じつはそういうものではない。イスラエルの民が今、主なる神を裏切り、淫行を働く人のようにバアル神への偶像礼拝をなしているにもかかわらず、神はなお、民を愛し続けて下さっている。この現実をホセアに身をもって痛切に気づかせたのも、妻を愛し続けようとする闘い、彼なりの十字架があったればこそだ。
もし信仰がそういうものだとするならば、「私のもとへ帰れ」との神の呼び声。これを確かに聞き得る人とは誰か。神はなぜ、「赦しの神」か。もし人間よろしく、「私はあなたの罪を赦すことはできないが、忘れてあげましょう」と神から告げられて、私たちは嬉しいか。あなたは解放されるか。「忘れる」という感情ではなく、目をつむる行いでもなく、唯一、「赦す」という断固たる神ご自身の意志がそこに貫かれていてこそ、私たちは福音の喜びに触れ、重荷を担えるのである。また、確かな神との交わりも、そこから得られていくのである。つまり愛とはそういうものなのだ。神はその愛ゆえに、感情を乗り越えて、背信の民を、あくまで愛し抜こうとされる。そして、その神の愛のご意志の確かさがいかんなく示された場。それこそが、あのイエス・キリストの十字架なのではないか。
背信の私たちに「私のもとに帰れ」と招き、呼び続けて下さる主の愛の深さ、確かさ。その揺るぎない神のご意志を感じながら、私たち今、それぞれの重荷を通して御声を聞き取る魂をいただくべく、讃美歌517番の歌詩に心を寄り添わせたいと祈るのです。


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