2020年4月26日  礼拝メッセージ

2020年04月26日

コロナ騒動で家庭で礼拝を守っている方に、この機会ですので、ふだん鷹取教会で読み進めているマルコ書、ローマ書から離れて、説教を届けます。

コロナ騒動で家庭で礼拝を守っている方に、この機会ですので、ふだん鷹取教会で読み進めているマルコ書、ローマ書から離れて、説教を届けます。

コロナ騒動で家庭で礼拝を守っている方に、この機会ですので、 普段鷹取教会で読み進めているマルコ書、ローマ書から離れて、 説教を届けます。

コロナ騒動で家庭で礼拝を守っている方に、この機会ですので、ふだん鷹取教会で読み進めているマルコ書、ローマ書から離れて、説教を届けます。

コロナ騒動で家庭で礼拝を守っている方に、この機会ですので、 普段鷹取教会で読み進めているマルコ書、ローマ書から離れて、 説教を届けます。

先ず、次の聖書箇所を各自でお読み下さい。

聖書箇所 哀歌第3章25節―26節 (口語訳p.1145 新共同訳p.1290)

日本語の旧約聖書においてエレミヤ書の直後に置かれる「哀歌」は、エレミヤがエルサレムの荒廃を歎き歌ったものとされて、伝統的にこの預言者の作と見做されてきたことは周知の通りです。しかし現在は、そう見る人は少数で、バビロン捕囚に連なる紀元前586年のエルサレム陥落から紀元前538年の捕囚民帰還の間に、他の者によって作られたと見ることが一般的です。ここには、イスラエルの罪に対する深刻な懺悔が歌われていると同時に、首都の破滅、住民の飢餓と苦難が具体的に、また痛ましく語られています。しかしそれでもなお、いや、そうであるからこそ、ここには神による救いの希望が切実に祈られており、旧約預言者の正統的な信仰が豊かに受け継がれていて、まことに感動的です。
そういった「哀歌」の美質は、お読みいただいた上記の聖書箇所からも明らかで、コロナウイルスに苦しむ現在の我々の立場からしても、最も味読すべき御言葉となっています。
「哀歌」の作者も苦しみの中にあります。しかし、苦しみの中で「主の救いを静かに待ち望む」ことが信仰生活の要(かなめ)を形成するという真実を、私たちはこの「哀歌」から学ぶのです。私たち鷹取教会の聖日礼拝が、「夜はよもすがら泣きかなしんでも、朝とともに喜びが来る」という詩篇30篇の御言葉を招詞として開始されていることを思い出して下さい。そうした復活の朝を、私たちは「果報を寝て待つ」ように迎えるのではありません。そうではなく、「待つ」ことによって、主イエスのお命が私たちの中でいよいよ大きくなっていくようにして待つ、のです。それは自分が小さく砕かれていくということです。それを「待ち望み」と呼びます。その「待ち望み」の中で、なぜ、神は大きく、それに比例して自分は小さくなっていくのか。主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きないということを、私たちは自分の弱さを通してこそ身をもって知っていくからです。
注がれゆく信仰に支えられて、私たちは、神のあわれみの新しさとその真実の大きさに引きづられるように、数々の苦しみを乗り越えてゆきます。福音とは「朝ごとに新しい」神の恵みに出会うことです。反対に律法主義とは、その恵みが自分の中で習慣化して古くなり、いつしか神の働きを自分の法則の中に閉じ込めてしまうことです。そこでは、せっかくの恵みも、新鮮な生き生きとした呼吸を失って、硬直化します。そうした律法主義は、自分という人間の枠内の小さな神にしか向き合えなくなるのです。それでは「待て」ません。待ち望めないのです。そこには我慢だけがあり、忍耐が喜びや期待に通じないのです。
私たちはいつも福音から、自分たちの苦しみより、神の真実のほうが大きいことを教えられながら歩んでいきます。神の計画は常に、私たちの願いや計画より偉大なのです。

【哀歌 3:25-26】口語訳
https://my.bible.com/bible/1820/LAM.3.25-26


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