コロナ騒動で家庭で礼拝を守っている方に、説教を届けます。


2020年5月17日 礼拝メッセージ


コロナ騒動で家庭で礼拝を守っている方に、この機会ですので、ふだん鷹取教会で読み進めているマルコ書、ローマ書から離れて、説教を届けます。 

なお、讃美歌は508番です。

 聖書箇所 申命記第3章23節―29節 (口語訳p.250 新共同訳p.285) 

23その時わたしは主に願って言った、 24『主なる神よ、あなたの大いなる事と、あなたの強い手とを、たった今、しもべに示し始められました。天にも地にも、あなたのようなわざをなし、あなたのような力あるわざのできる神が、ほかにありましょうか。 25どうぞ、わたしにヨルダンを渡って行かせ、その向こう側の良い地、あの良い山地、およびレバノンを見ることのできるようにしてください』。 26しかし主はあなたがたのゆえにわたしを怒り、わたしに聞かれなかった。そして主はわたしに言われた、『おまえはもはや足りている。この事については、重ねてわたしに言ってはならない。 27おまえはピスガの頂に登り、目をあげて西、北、南、東を望み見よ。おまえはこのヨルダンを渡ることができないからである。 28しかし、おまえはヨシュアに命じ、彼を励まし、彼を強くせよ。彼はこの民に先立って渡って行き、彼らにおまえの見る地を継がせるであろう』。 29こうしてわれわれはベテペオルに対する谷にとどまっていた。 

この聖書箇所は、自分もヨルダン川を越えてカナンの地に入りたいと願うモーセの祈りと、それに対する神の返答が記された部分です。このモーセの願いは聞き入れられないわけですが、このうち、とりわけ興味深いのは26節の後半です。主はわたしに言われた、としてモーセは神から告げられた言葉を語るのです。口語訳でこうあります。「おまえはもはや足りている。この事については、重ねてわたしに言ってはならない」。労苦に労苦を重ねて民を率い続けて来たモーセに対する、一見これは何という神の冷たい応答でしょうか。これでは人間モーセにしてみれば、目標に向かっての労苦のみを背負わされ、肝心の結果を手中に出来ない、ということになります。恵みの御心というにしては残酷ではないでしょうか。しかし私たちは、「おまえはもはや足りている」というこの神の言葉から、新約聖書の或る場面が思い出されて来るのです。そうです。パウロが肉体のとげを取り去ってほしいと熱心に祈った時の神からの返答、「わたしの恵みはあなたに対して十分である」の、あの場面です。まさに私たち信仰者が、救い主との確かな出会いを果たす中で、誰しもが人生の中に深く刻印されるべき、「わが恵み、汝に足れり」の、神からのあの宣言です。 私たちは願います。足りないと思っているからです。祝福に不足していると感じているからです。しかし神は、「足りている」と告げます。およそここには、信仰を信仰としてゆくために不可欠な根本の事柄が示されています。この衝撃に出会わずして、この経験を持たずして、信仰は神から与えられ来るもの、と真実に告白することは誰にも出来ません。 私たちはもともと、世の寄留者であったはずです。それを裏側から表現する、「わが国籍は天にあり」の、あの御言葉なのです。ところがどうでしょうか。モーセの場合を考えてみれば、自分が率いた出エジプトの大仕事を完成し、みずからも約束の地に入って、功成り名を遂げ、願わくば最後まで見届けて、その大いなる満足のうちに死にたい、というのが人情だったでしょう。しかし神は今、モーセに、世における成功や、人としての自分の満足からではなく、脈々とつづく神の救いの歴史、その御心とご計画の見地から、すべてを見、すべてを受け入れることを求めるのです。皆さん、これは、およそ人生というものに向かい合う私たちの態度に、ある重大な発見と悔い改めと変革とを迫るものです。 人はその全生涯を通じ、自分に割り当てられた、ほんの一欠片(ひとかけら)の役割を果たすだけで十分なのです。しかし、私たちの思いはそこにとどまれず、個人の視点や願いを離れて物事を見ることが難しくなるのです。しかし、だからこそ私たちには、個人の視点や願いを超えて祈る言葉、「御国を来たらせたまえ」、これが主から与えられているのです。

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